院長の知恵袋
曹操と華陀
- 2014.7.16
曹操、三国志の英雄の一人で、中国後漢末期の武将でしたが、政治家でもあり、また詩人であったと言ういくつもの顔があり、魏・呉・蜀の三国の内の一つ魏を作った人物でした。
魏は三国の内で最大勢力を誇る国で、その主たる曹操は当時の中国で最も権勢を振るっていた人物と言えます。しかし、曹操にも頭痛持ちであるという悩みの種があり、中国では神医とまで呼ばれる程であった華陀を典医として召抱えます。
華陀は曹操の治療に当たりますが、いつまでも士大夫(当時の中国の知識人層)の位が与えられず、医者としてしか見られないことに不満を持っていました。
昔の中国は医者の地位は低く、明時代の名医李時珍の場合は医者の地位の低さを気にして医者であった父親が跡を継がすのを嫌がったくらいでした。
そのような待遇の不満から華陀は医書を取りに行くと言って故郷に帰り、その後は妻が病気だと偽って休暇延長を申し入れて、曹操の下へ戻ることはありませんでした。
曹操はそれでも「妻が病気ならば休暇延長を認める。」という旨の使者を送り酌量の姿勢を見せましたが、嘘が判明すると、怒って華陀を投獄し、拷問の末に殺害してしまいました。
華陀は死の直前に、自身の医療書を牢番に与えようとしましたが、後の災いを恐れた牢番が断ると焼き捨てたそうです。
曹操は幼いながらも抜きん出た才覚を現していた息子の曹沖を溺愛していました。ところが曹沖は13歳の若さで夭折してしまいます。
その事に曹操は、華陀が健在ならば治療できたであろう事と、自身の頭痛を治せる者がいなくなった事を後悔したといいます。
ただし、曹操は「華陀は曹沖を治しても、俺の頭痛は治さなかっただろうな。」とこぼしていたそうです。